昭和54年 10月18日 月次祭
赤と白がひとつになると、めでたいと言い、赤と白とが相対すると、おー、争いというような感じがいたします。紅白歌合戦というような、合戦になりかねない。えー、源氏の白旗、平家の赤旗ですかね、いつもがこう、相対しておるから、いつも、あの、やはり、合戦になる状態、雰囲気がいつもあるわけです。ですからそれがひとつになるというところに、いー、信心があると思うんです。ね。
いつも、ですから、祝い、めでたいということになります。毎日、毎日が、おめでとうございますというような心の状態で、そうさしていただくということです。
今朝からの御理解にも、毎日を元日の心で暮らせば、家庭に不和はないと。ね。日が暮れたら、大晦日と思い、世が明けたら元日と思うて、日々、嬉しゅう暮らせばよいのです。今朝から、先ほど竹内先生が、前講で申しておりましたように、うー、元日の心にならせて頂こう、今日も大晦日の心で終わらせていただけるような、一日を締め括ったら、あれもおかげであった、これもおかげであった、言わば、あれもこれもあるのです。自分の都合の良いことばかりではない。都合の悪い事もある。損することもありゃ、儲かることもある。
けれども、あれもやはりおかげであった、これもおかげであったと心に合点がいく時に、心からお礼が申し上げられる。本日もおかげを頂いて有り難いという一日で締め括らせていただくところに、翌、翌朝の有り難い目覚まし、それこそ元日の朝を迎えたような心で目覚ましのおかげが頂かれる。もうそれで、今朝からも、研修ん時もそのことを申しましたけれども、もう馬鹿のひとつ覚えと言うが、もうこれひとつ覚えとけばいい。教祖の神様の、言うならば教えて下さることは、いかにしたならば私共が、和賀心になれるか。ああ、嬉しいなあ、有り難いなあと、はあ、これが和賀心だろうと思う。
ところが何かちょっとこう、何かでがたってくると、もう不安である、おののいてくる、腹が立ってくる、情けなくなってくる。それは、和賀心ではないのです。和賀心とは、どういう時であっても、降ろうが照ろうが、言うなら有り難いという心なんです。だから、そういう心にならせていただく手立てとして、今日もどうぞ、ね、元日の心で過ごさして下さいというのがなからなけばでけんのです。
まあ、元日の心というても、その、まあ寝正月っちゅうようなことを申しますからね。おー、お休みだからもう、今日は、一日、朝から寝て、(むろあれん?)文句がいい手がない。今日、研修ん時に、ちょっと、だれだれさんじゃんのちゅうたら、あー、休んじゃあるしょうっちゅう声が出る。はあ、もうあの人は寝正月ばいなっちゅうて(笑い)から、今日は朝から合楽にご縁のある人みんなが、元日の心、元日の心、今日も元日の心にならせて下さいとて祈っとるから、その先生もやっぱり、今日は、元日の心で飯を(?)さして下さいということになっとったわけで(笑)。
だからその頂きようですよね、ですから結局、言うならば目が覚めた時に有り難いという心が頂ければそれでよいのです。ね。ですから、やはり、大晦日の心がいるのです。
今日の研修ん時に、皆、先生方が発表しました後に、4,5人の先生方に、どの、おー、研修が一番、(とば?)に毎日、ああして書かれます。朝の御理解を、おー、まとめるわけです。短く、まとめて、皆がそれを写して帰られる。今日の誰がよかったか、4,5人、候補が上がりました、誰が良かと誰が良かったと、で、今日は、ちょうど梶原先生が、うーん、正奉仕ですから、あー、やっぱり私と打ち向うて、こちらへ、御結界奉仕をしておりました。
だから、先生、あんたそこから、聞きよってから、どげん思うのって私が申しましたが、「今村かずこ?」先生のが、私は良かったと思いますっち。かずこ先生がね、(はって?)をおしておられる時に御結界でおいさみがついたと。おう、そんならいっちょ、あー、かずこ先生がまいっぺん聞いてみようかと言うて、聞いてみたら、なるほど、おいさみが起こるはずだというようなところは書いてあった。
んならもう、それに決めたと言うて、そのことを、今晩掲示してあると思います。私はもう、どんな場合であっても、神様が右と仰ったら右できります、左と仰ったら左に切れます。人間心を使わない。
今度、御大祭側の麗しゅう、もう年々歳々に、まあ、御大祭度に、したお祭りがだんだん、奉仕され、はあもう今度のお祭りこそ、言うこと、言うところなかった。もう反省会せんですむごとあった。有り難いお祭りであった。
昨日は合楽会でしたから、その、まあ、言うなら大祭のこぼれ話が皆さん発表されました。まあちょっとたまがったちゅう、初めて合楽の大祭にお参りできたら、ちょいともうたまがることばかりだった。とにかく、お参りも多かったがお供えがもうちょいと、まああげな立派な見事なお供えが、あげん沢山集まる。大したこっちゃあると思いましたという発表もあるかと思うと、ね、皆さん、どうだったでしょうか、(笑)、はあ、素晴らしか、もうちょいと帰って一番口に、今日の大祭はもう素晴らしかった、もうお供えがいっぱいじゃったというようなことが一番口に出るようなことでは、私はまあだ、信心が、本当の信心になってない証拠だと。
それこそ、御大祭度に充実していく、もう本当にお三宝から、先生方のお手からお手に移っていく、あのお三宝を眺めさしていただいておると、あれが合楽のごひれいだと。あの通りに、言うならば合楽の教会が発展しておる、ごひれいが輝き渡っていっておる姿であると思ったら、感動でいっぱいでしたと言う。ね。
御大祭を頂いて、もし感動がないなら、あなたは真心が足らなかった。あなたが、只、自分のことだけしか願いやおらなかった。ね。教会のことを願うということは、教会の、言うならば信者の一人である、各々が、発展、言うならばあの御大祭の、おー、ごひれいに浴した時に感動が湧かないはずがない。感動が湧かないなら、まあだ、私は一人前の合楽の信奉者じゃないんだと、私は言うて、間違いないと思うです。
おかげを頂いて有り難かったと、自分のことのように、有り難い。ね、おいさみがついたでしょうが。嘘、本当なんです。自分のお家の御大祭、言うなら自分のこととしての御大祭。ね、はあ、ちょいとばさらかばちゅうごたることだけでは、ただ、ね、お参りをしたというだけに過ぎないのです。ね。ですから、結局、お広前は自分の心の故郷であると同時に、いや、お広前が慕わしゅうて、慕わしゅうてというところである。
何故、慕わしゅうなるかというと、自分の心を育てて下さったのだ、育てて下さる場だからということになるのです。そこで、なら、自分の心を育てて下さるということは、言うなら心に糧を頂かなければならない、その日その日の御教えが、その日の糧にならなければならない。その心情としてです、まあ、合楽理念をマスターするというふうに申しますけれども、んなら、今朝の御理解を頂いておると、この御理解をひとつ覚えておけば、このご理解をいよいよ深めていけば、広めていけば、言うなら元日の心に、今日もならして下さいということを一日中、心の中に願い続けるような信心さしてもろうて、心の中が動揺したり、または、悪いことを思うたりする時に、はあ、元日早々からこげなことを思うちゃいかん。こんなことをしちゃあいかんと、改めにも改めていくというような、生き方をこれひとつ覚えていきゃあね、合楽理念が生き生きとしてくる。教祖の御教えが生き生きとしてくるんです。ね。
あれもこれもと少しずつ、そっからかじっとったっちゃいかん。こら大祭のごひれいに浴するということは大変なことです。これは度々ですけども、それこそ、不思議な不思議なおかげが、言わば、あの御大祭を拝んでおるうちに、現れてくるんです。いただけてくるんです。病気の人が治った。食べられない物が食べられた。ね、今日も、今、お祭り始まる時に、末永先生が届けしておりましたが、ね、宮崎から、今、電話がかかりました。「すみ?」さんという方が。糖尿病で、もう入院、ちょうど、えー、昨日、16日の御大祭の日が、入院ということになっとった。
そら、どうさすべきだろうかという電話であったから、ね、それはね、入院の方は、一日二日延ばしても、かんまんから、大祭の方をとられたが良かろうと、こう言う。とろこが大変、体がきつくて、なら、道中どうぞ、無事におかげを頂くようにというお願いであった。でもう、電話をすぐ聞かして頂きましたが、あの、すぐ、聞かしていただきましたら、ここへ着いた途端から(しっけび?)が始まった。
ずーっと帰りまで、えー、(しっけび?)が続いた。まあ、言うならばどうしたことであろうかと思うような、ことであったけれども、いよいよ、おー、今日、今日ですね、えー、病院にやらして頂いてから、入院の、まあ手続きがとってあったので、入院のつもりで行ったところが、あー、また再検査があった。ところが全然糖が出ていなかった。出らなかった。こんならちょいと入院は見合わせるということになったという電話であった。もう不思議な(?)あるですね、私も糖尿病ですから、そういう方にあやからせて頂きたいと思うくらい。ね。
糖が全然出らなかった、もう入院しなければならんほどしのひどい糖尿病であった。これは、今、末永先生が受けたばっかりの話です。まあそれは、不思議な不思議な、あー、大祭が終わりますと、4,5日はお届けがございます。ね。言うならば、あの感激というか喜びのるつぼのようになる、そこにです、もう只、有り難い有り難いで、こう見とれるように、そのお祭りを拝んでいる間に、おかげを頂くんでしょうね、やっぱり。
というような、おかげと、ね、それから、はあとにかく今日の御理解は素晴らしかった、お参りが沢山であった、お供えが見事であったと言うだけではなくてです、自分の心に感動が湧くほどしのお大祭を頂かしてもらうということは、とりもなおさず、合楽の、言うならば御信心を頂いておる者としては、当然そうである。
昨日の合楽のある方が発表しておりました。ある事情でもう、その、まあとりあえず、始まるちょっと前に、あるその方が御用を頂いておられるもんですから、そこあんた(?)せんのっちゅうて、もう来た途端に怒られた。ね、ところがどっこい、もう、御大祭御大祭という、その、あー、声がありますからね、それが有り難かった。もう嬉しゅうして嬉しゅうして、(こたえ?)じゃった。
こっちゃ行きよった、あー、(久富?)先生がもう、嬉しゅうしてこたえんちゅうごたるふうで、えー、(?)さん有り難かんのっちゅうて、肩ば叩かっしゃったらもうそれから、なおまた、有り難なってきたという発表をしておられました。ね。
皆、もうとにかく嬉しゅうして有り難うしてこたえんという、あの中に入るから、初心の人でも、それにどうかしてしまう。ね、有り難いですね。そういう有り難いお祭りであったから、本当に、今度は反省会はいらんごとあんのっち言いよったら、あの、総代さんの高橋さんから、お話を聞かしてもらった。
もうある人が参って来てからもう、(?)にゃふうが悪かった。もう誰でん彼でん、当たり散らかしてから、あー、その、困ったと。昨日、信徒会がございましたが、信徒会の帰りに信徒会長がこちらへ寄ってから、もう、昨日はあなたも先生こげなこっでした。もうある先生が(はらけちから?)、もうとにかくのるとが悪かったと、何はもうとにかく、おー、まあ、その、まあどうこう、もうモヤモヤして、こう(てんちょうたふ?)で、まあ言われた。
ほう、そういうこちゃったですかいな、そら私があんまりね、御大祭が素晴らしい御大祭じゃったけん、腹ん立っちゃったじゃなかじゃろうかなちって、まあ申しましたけれどもね、それかと言うて、私、私は、そげなことば言うちから、その、というふうには思いませんでした。言うならば、私の心の中には、白と赤とがいつも、ひとつになっておるからここに邪魔んなものがない。それこそ、紅白の重ねと重ねた( ? )ような心でおるから、こちらの心が乱れない。ね。
そういう心におかげがある。私はその事を、あの、聞かして頂いておりましたら、神様からね、これはお互いの心の中に、本当に、えー、顕微鏡じゃならないような心になりますと、ありますあります、おかげの邪魔んなる心が。ね、または、おかげの受けられない心があります。ね、とにかくもう人の事が目に付いてそれが腹が立って腹が立って、えー、その、こたえんというごたる時には、必ずおかげが衰微しておる時。もしそれが教会長であるならば、その教会が衰微の一路を辿っておる時だと、神様頂きました。
だから、気の毒でしょうが。どうしてじゃろうかと思うぐらいのこっちゃなかじゃろう。本当に気の毒な、心ひとつでおかげが受けられるという信心を頂きながら、そういう心使いをなさったんじゃ、いよいよそこのご信者は助からないというふうに、私は思うた。だから、そのへんの事をやはり祈らずにはおれなかったわけです。ね。ですから、それとは反対な心。ね、人が喜ぶ時に、はあ良かったですなと言うて、一緒んなって喜べれるような心は、言うならばおかげが上昇中の時である。または、おかげが頂けれる元が、だんだん蓄えられておる時というふうに、頂いてよいわけですね。
なかなかね、今日も、ある修行生が、もう私の心はもう、ころころ変って、今、有り難かったかと思うともう次には腹が立っておる。次には悲しゅうなっておる。まるっきりヒステリックな心の状態を、ここで訴えるんです。ね。だから、あんたヒステリックじゃなかのっち言うと腹かくけんいかんけんち思ちから(笑い)、いや、女子じゃけんやっぱりそうとこもあるとですよ、やっぱ。
それが有り難いとばいと私は申しました。心がぴちーっとこげんしてはっきり言うても、(いうかんならんから?)どうこんできんもん。こら、こら、心という語源はコロコロというような(?)、コロコロ変わるところが素晴らしかばいっち。だから信心とはね、それが悲しかったり嬉しかったりがね、もうその嬉しかったり有り難かったりにコロコロとね、もう有り難い方にしか転んでいかんちゅう稽古だから、稽古の材料を与えて頂けるとじゃけん、有り難かばいと言うと私がもう嬉しかごとあるでから、(笑い)、はあ、こげんコロコロ変わっても、情けないと思いよったけども、そうではない。コロコロと心が変わるということが、だから、(しょうにんばしょう?)。今日の御理解を頂いて、ね、今日こそはいよいよ元日の心でというような、頂き方を本気で心にかけさしていただいておると、悲しいことも腹の立つこともあるけども、あっ、今日は元日だ、こげな悲しい思いをしてはいけん。こげないらいら腹立たしい心であってはいけないということになります。ね。
( ? )、人の顔を見たらおめでとうと、言えるような、このおめでとうを言う、挨拶代わり言う教会は非常におかげ頂くですね。私は大阪の、えー、阿倍野の教会におかげを頂いた時に、泉南教会にお訪ねして、そこで一晩泊めてもらったんです。あちらへ行ったらもう、参っておりましたら、信者が参って来とりました。そしたら私を見て、全然、(?)しか(かたない?)。知らないご信者ですから。おめでとうございますっち、私はびっくりして、何がめでたかじゃろうかと思ちから、したら私んござった。ね、先生もそうです。もう奥様もそうです。もう信者は参ってから、先生、おめでとうございます、これはお届けの第一声です。もう教会あげてがおめでとうございますです。ね。
ですから、めでたいということは、嬉しいとか、ね、楽しいとか、それこそ、鶴と亀とが舞い遊ぶというようなことだけがめでたいのではなくてね、めでたいということは、言うなら馬鹿と阿呆になるということでもあるのですよ。ね。あれはちっとはめでたかっじゃなかじゃろうかと言うでしょうが。だから、そうなんです。心が豊かに大きゅうなる、人から見たら馬鹿じゃなかじゃろうか、こげなこつ言われてから、あんた腹ん立たんのっち、言われても腹が立たんから仕方がない。ね。
どうでもひとつ信心をさして頂いてね、私共の心はそれこそ、コロコロと変わっていくようにできておりますから、そのころころがね、有り難い方へ有り難い方へと転がっていくような、ひとつ、修行をさして頂きたい。それにはね、本気で取り組まなきゃいけないと。ね。
今朝の御理解に、んー、結局、元日の心というのは、さらな心いうことであろうということになりました。ね、3代金光様が、ね、日に日にがさらでございますとこう仰られた。そら、金光様のさらというのはもう、大変高度なさらですよね、もう日に日に、御自らを、もう虚しゅうしておられる。自分というものの我情もなからなねば我欲もないご様子でおありになる。そこから生まれてくるさらなもの。そのさらな心で御用をしておるというふうに仰っておられましたが、私共はそのさらな心がいるんです。みずみずしい心がいるんです。ね。
只、詳しいとか分かっておるだけでは、役に立ちませんどんな指針の人でもよいから、いわゆる心の中にみずみずしい、有り難いというような心が生まれたら、その心がおかげをキャッチする。頂いた、受け物になってくるんです。
先程、あの、お祭り前に、お取次ぎさして頂いた、あー、方の中に初めて、今日、お参りを、お母さんは、あー、いつもお参りになります。娘さんは初めて、ご自身との仕事の関係のことを、いろいろお届けがありまして、2度目にまたお願いに出て来られた時でしたが、(田中みぐん?)ということを頂いた。だからね、えー、まあ、おかげの受け物ができれば、必ず恵まれるんだということを一口、ご理解を頂いたんですけれども、あー、なるほどそうだなと私も思わしてもらいました。ね。
例えば、私は御大祭の後にいつまでも御大祭の雰囲気が残ってはいけないと、御大祭そのものは有り難いけれども、後は何か、こう、にぎやか、御祝儀の後のようなざわざわしたようなものがあってはならない。もうだから、夜の御祈念の時に参ってみえたら、もうあら、今日はあげな大祭があったが、あの、今日が大祭じゃったじゃろうかというような雰囲気。もう教会全体がそうです。もう全部、もうこういうみす類からお三宝類からもう教会全体がいつもと同じになります。
ですから夜の御祈念の時には普通と、平生と同じことになる。それは私の心の中に、私の心が、あの、そうだからでもありましょうけれども、ね、やはり、もういつまでも大祭大祭と言うとってはつまらん。ね、もう言うならば次の大祭への心構えができなきゃならない。ですから、さらな心を創るための、ひとつの演出と言うても、まあ良いのじゃないかというふうに思います。
ですから明くる朝がまた、はあもう昨日はもうあげんしてお参りしとったけんで、もう今朝どんご無礼しようちゅうことはなか、朝の御祈念はやっぱここいっぱいである。言うならば昨日一昨日が、あの大祭であった。一日置いて今日はお月次祭ですけど、見てごらんなさい、やっぱここいっぱいでしょう。これはね、さら、皆さんの心がさらだからできるのです。お供えなんかでも、今日は朝からもう珍しい人ばっかりが参って来ました。
そして珍しい人が珍しいお供えばっかり持って来ました。本当に不思議です。神様の働きっちゃあもう限りが無いです。人情からは生まれてこない。もう神情でいき、そして自分の心はさらな心というような、さらな心で神様へ打ち向かわしてもらうから、おかげは限りが無いということが分かる。昨日一昨日あげな大祭ば頂いたという気分が皆さんにもないでしょうが。ね。
やっぱ、皆さんおかげを受けておられる証拠です。私も、御大祭は前、随分前にあったような心持で、今日のお月次祭は仕えさして頂きました。というわけでね、私共はさらな心を頂き、求めての信心でなからなければならない。それには、私共は日々、今日も本気で元日の心にならして下さいと願わなければいけない。それに努めなければいけない。どんなことが起き、あっ、元日朝からこんなことを思うちゃならんというふうに改めていくおかげを頂いてまいりましてね、夜ともなったら大晦日の心が生まれてくるようなおかげを頂いたら、ね、それこそ、明くる朝、目が覚めたらおめでとうございますというような心が開けてくるぼです。
ひとつ、紅白のね、合戦ではいけません。紅白が相対しておってはいけません。ね、にらみあっているような状態ではいけません。これがひとつになって、ね、喜び合えれる状態。紅白のまんま、こう張り巡らして、もうそれだけでもお祝いって気がする。紅白のお鏡のおもちがお供えしてある。それだけでも、はあお祭りという感じがする。ね。自分の心の中に、あー、嬉しい嬉しいという事だけではなくて、ね、嬉しくないこともあろうけれども、その嬉しくないことと思うその事も、やはり開けてみれば神愛だ、開けてみれば愛だということを分からしてもろうて、ね、元日の心でそれを受けさして頂きますと、その赤と白とが、言うなら苦しいことも、まあ儲かったことも、損したことも、一緒に、言うならば有り難いということにになってまいります。そういう稽古をいよいよ深く広く続けていくということが信心です。
私共の心の中に、言うなら紅白、相対しておるようなものがあるとするならば、何かそこには、生涯が原因があるのですから、それを取り除かせて頂く工夫と、また、自分の心をコロコロと有り難い方へ頂けれる心の状態を創って、いよいよ信心の稽古をしていかなきゃいけんと思います。私は明日、21日が、東京支部の御大祭。ですから21日の御大祭を頂いたその夕方は帰ってまいります。飛行機ですから。ね。
えー、もう、「おか先生?」は、あー、昨日から、あの、親子で、夫婦で、東京の方へ準備に行っとります。もうあちら、その、おー、支部長の家は狭いもんですから、あの、銀座の方の、(双葉のみ会?)を、全部この襖を取り外して、スーツを、だからもう、その、御神具から、あの、送って、えー、御大祭の準備を、まあさして頂いておるわけですけれども、とにかく東京だけでも、合楽の、息のかかったご信者さんが、80名くらい来るんです。もう私は驚いてしまいました。
それには、もう先生があちらにおい出るならば、あの、誰にも通知したら彼にも通知したいという方達がありますから、沢山、(のさかっくんまあ?)、あの家に入られんぐらいに、沢山の人が集まって来ることだろうと、まあ予想しておりますけれども、どうぞ皆さん、お祈り添えをお願いいたします。